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古道具さわだ お道具資料編

古道具買取り店「京都さわだ古道具」の書画骨董、茶道具などお道具にまつわる資料を日々まとめております。読者様のご参考にしていただければ幸いにございます。

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浅野焼ー香川県の焼物(四国地方)

浅野焼の解説です。

浅野焼(あさのやき)は、讃岐国香川郡浅野村(現:香川県香川郡香川町浅野)の豪農向井舟皐がこの村の船岡山に窯を築きました。

筑前国(福岡県)高取の陶工を招いて自家用の種々の器を作陶したそうです。

浅野窯とも呼ばれ、器は無名、なだれ釉が特徴とされています。

いわゆる趣味の窯・焼物ということになりますでしょうか。



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参考文献『原色陶器大辞典』

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朝田焼ー福岡県の焼物(九州地方)

朝田焼の解説です。


福岡県浮羽郡浮羽町朝田の一ノ瀬の古窯。

1605年に開窯されたといわれています。

初期は陶器を主に製陶し、化政期(1804-1830)以後は染付け磁器の日用食器を中心に量産しました。
江戸の末期になると再び半胴甕などの陶器が主となりますが、明治初年に廃窯。

1959年に復興される。

一ノ瀬焼とも呼ばれる。





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参考文献『原色陶器大辞典』、『やきもの辞典(平凡社)』

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朝日焼ー京都府の焼物(近畿地方)

朝日焼の解説です。

朝日焼(あさひやき)は京都府宇治市朝日山の陶器です。遠州七窯の一つでもあります。

余談ですが私の出身地でございます。そのせいか朝日焼にはとても愛着を持っております。

余談はさておき、朝日焼をみていきましょう。

【初期の朝日焼】


慶長年間(1569-1615)、初代奥村次郎右衛門藤作(陶作)が築窯したのが起こりと言われております。主に小堀遠州好みの茶器を製陶していました。初代・二代・三代と続きこれまでの時代の作品を古朝日といいます。多くは茶碗で御本風が主な特徴です。
素地は褐色、釉肌に黒斑、刷毛目などの櫛描きなどが特徴です。


【元禄以降、途絶えたとされる朝日焼】


四代以降俵屋の屋号のもと名も長兵衛となります。一時途絶えたと伝えられますが決してそうではなかったのです。
その背景には大名の庇護が薄れていき止むを得ずに生活の糧を他の職業に求めなければいけない厳しい現状があったのです。しかし朝日焼は代々継承され続けておりました。つまり元禄(1688)から幕末期までは多角経営時代なのでした。


【幕末期 ~朝日焼の再興~ から今日まで】

八代・九代長兵衛が各々嘉永年間(1848-1853)、慶応年間(1665-1867)に復古願い・再興願い出し許可され、再発足にこぎつけます。
明治の文明開化から今日までに及んでいます。
紅斑の御本手や刷毛目、彫三島、鹿背などが特徴です。



【朝日焼の窯印】


遠州筆と伝えられる遠州印「朝日」、朝のつくりが「卓」になっている卓「朝日」の小堀権十郎印などが古作には見られる。
今日は「朝日」印が一般的。


【作    品】


①茶碗(江戸中期頃)


①の印


②茶碗(現代)

②の印


『日本陶器全集(大正)』より



【朝日焼の別称など】

宇治焼、宇治田原焼



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参考文献『原色陶器大辞典』、『日本陶器全集(大正)』、『カラー朝日焼 土はいきている』

参考写真『日本陶器全集(大正)』、古道具さわだ所蔵品


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有田焼(伊万里焼)ー佐賀県の焼物(九州地方)

有田焼の解説です。

有田焼は今でも良く耳にする焼き物の名でとても馴染みの深いものだと思います。



有田焼は、肥前国(現佐賀県)有田で焼かれた器です。

日本は中世まで磁器がなかったのですが、江戸時代の初期(1610年代)に朝鮮の陶工(秀吉の朝鮮出兵の際に佐賀藩鍋島直茂が凱陣の際連れ帰り帰化した人々)の技術により日本初の磁器が生まれました。土器にはじまり、釉薬を施した高火度の陶器に進歩し、この白くて硬い磁器へと進歩したのです。

そして生産は長崎県の波佐見窯など周辺に拡大していきます。こうして広域で磁器が作られ伊万里港(佐賀県)から出荷され消費地の江戸、京、大阪へと送られます。この時の出荷港の伊万里の名を取り伊万里(今利、今里など様々な当て字を見受ける)焼と呼ばれ広まっていきました。


草創期

当時の需要としてはまだまだ中国の景徳鎮窯(けいとくちんよう)の染付が重宝されていた。
このために青い絵模様を施した染付を作り始めます。
朝鮮の陶工たちは母国では白磁が主流であったため染付文様の考案には当時の中国の絵手本などから題材を参考にしていたと思われる。
しかし、成形技術は優れており、中国のものとは異にしていた。何よりもの特長である窯詰めの際に砂目積みの方法(焼く際に製品同士の間に砂状の小さな塊を3個~バランス良く置き積み重ねる方法)が草創期の作には見られる。
朝鮮の技術と中国風の意匠、日本的文様が組み合わさった磁器である。また火の調整が不十分な時代ともあり焼成むらなどが生じやすかったとされる。


寛永期 1624-1644】

民間ベースで始まった有田焼ですが、生産が盛んになるにつれ燃料などの消費量も増大していき、薪の原料となる木の伐採で山が荒れだします。これを理由に鍋島藩は陶工の追放や伊万里地方・有田地方の窯場も取潰しになります。そしてわずか13の有田の窯場に統合することにしました。これを機に陶器による雑器の生産が消え、磁器生産体制が整い、良質な窯場が出来上がったのでした。
正保元年に中国が明清王朝交替の内乱のため中国磁器の輸入が激減します。このチャンスを生かし生産量の増大工夫をし国内市場を席巻することになります。
鍋島藩の磁器が重要な財源となるとみて政策をとった先見の目が大当たりします。
この頃までに作られたものを現在「初期伊万里」と呼びます。

正保期 1644-1648初期色絵

この頃になると技術革新も進んでいき、本焼きした素地に赤、緑、黄などの色絵の具で模様を描き低火度で焼きつける色絵技法が中国より伝わり1647頃には成功したといわれています。
初期の色絵には二つの装飾方法がありました。
①赤の輪郭線を使い明るい赤・緑・黄を使い「南京手(なんきんで)」「祥瑞手(しょんずいで)」と呼ばれるものです。
②黒の輪郭線を使い赤・緑・黄・青・紫など濃い色調の絵の具を5色ほど使う「五彩手(ごさいで)」と呼ばれるものです。
当初、初期伊万里の時代でありながら、景徳鎮磁器に近い素地を開発しシャープな作りの大皿が焼かれた。
そうした色絵大皿が50年代に入ると姿を消し、より厚手で粗放な白磁素地を用いたものになり、その汚さを隠すように赤以外の濃厚な色絵の具で器面を塗り埋める装飾が主となっていきます。
「青手(あおで)」
また1647頃からは東南アジア諸国も時期を肥前に求めだし、中国船、オランダ船と肥前磁器の輸出も始まりました。

寛文期 1661-1673】

1659年ころからオランダ東インド会社によるヨーロッパ輸出が本格化すると、国内外の需要に応じた様々な時期を作り始めます。
輸出時代を迎え色絵の業者を集めた赤絵町の設置や窯場の移動など再編がおこなわれます。
初期の色絵から輸出向けに明るい色調の色絵と変化します。
1650後半には金銀の焼付技法も始まります。色絵の加飾方法に幅ができていきます。
「仁清手」「藍九谷様式」もこの頃。


延宝期 1673-1681】

1670年代に入るとより完璧な時期を求めるようになり、柿右衛門窯で典型的な柿右衛門様式の色絵磁器が完成する。濁手(にごしで:乳白色)のように青みを取り除いた白磁素地を用い繊細な模様が施されたものが作成される。
また染付もより線描きが緻密な表現になり、ぼかしやダミも巧みになっていきます。「藍柿右衛門様式」と呼ばれる技法の誕生。
そして同じ図柄の組皿などキッチリ作るために技術も進み、土型を使った「型打ち成形法」や「型紙摺り」も盛んになる。


元禄期 1688-1704】 金襴手

色絵は1690年代を境に柿右衛門様式から金襴手様式へと変化していきます。
金と赤を多用し、また緑に新たな黄緑色が加わりました。素地も染付を施し釉薬に青みが戻ります。模様表現は硬くなり、図案化が進んでいきます。「古伊万里様式」と呼ぶことも。
見込みには五弁花文・松竹梅を輪状に表す文様が現れる。この他に「氷裂文」も。
また、蓋付きの飯碗が現れ次第に一般化していく他、どんぶりなどの高級鉢が登場するなど、富裕層の生活に有田磁器が深く浸透していった時代でもある。



宝暦期 1751-1764】

輸出時代が陰りを見せ肥前磁器は国内向けの市場開拓を行っていく時代に。
この頃に庶民向けの粗放な染付碗、皿が波佐見窯を中心に大量に作られ安価に求めることができるようになったとされる。誰もが日常的に磁器を使い食事をする時代の到来。
有田は高級・波佐見は日常などと産地間で差別化が出来上がる。磁器の多様化。
そば猪口などもこの頃から普及し始める。






天明期 1781-1789】

この頃になると、中国の「粉彩(ふんさい)」と呼ぶ色絵の影響を受け、不透明な厚い青・黄などの色絵の具で文様を描くようになります。またウグイス色の明るい緑も出現。
清朝磁器の影響を受けた「広東形(かんとんがた)」と呼ばれる独特の椀形の出現や、中国の明朝末期の祥瑞のリバイバル、染と白の逆転表現が多く見られる。





化政(文化文政年間) 1804-1830】

端反り形碗など中国磁器の影響を受けるものが多くなる。「素書」と呼ぶ線描きだけで塗りつぶし(ダミ)をしない、あるいは一部だけにとどめるものが増える。
盃洗や盃、口径40センチを超える大皿も増えてくる。
色絵では白や桃色が使われるようになり、赤絵に独特な羊歯状の唐草を表現したものが一般的になる。

 



【明治以降~近代】

明治以降、次第に陸送に代わっていき有田のモノは有田焼、伊万里市域のものは伊万里焼と細分した産地の名で呼ばれるようになっていく。
時代が進むに連れ染付・絵付けなどの装飾はかなり粗放になっていく。



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参考文献『原色陶器大辞典』、『古伊万里入門(青幻社)』

写真 古道具さわだ所蔵品

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粟田焼ー総称ー京都府の焼物(近畿地方)

粟田焼の解説です。

京都粟田(現東山区)付近の陶器の総称になります。


~著名な粟田焼~

【粟田口焼】

開窯は慶長年間(1596-1615)を降らぬものとみられています。主に茶入・茶碗などの茶器を焼き、唐物や呉器手・伊羅保手などの写しに特色をだしていたようです。
向付などの器には錆絵や錆絵と染付を併用した淡雅なものが多いです。
狭義の粟田焼は元禄(1688-1704)頃まで続いたとみています。
「粟田口」の印がある。


【岩倉山(いわくらさん)】

初代は明らかではないそうです。岩倉山こと錺屋吉兵衛は1756(宝暦6)三文字屋九右衛門の子孫が衰退したために、錦光山吉兵衛と共に代わって将軍家の御茶碗師となり粟田領三条通(東山区)に住む。
子孫のうち文政・天保(1818-1844)頃の吉兵衛は名手と伝えられる。
なお、野々村仁清の窯跡の一つとして左京区岩倉の地も数えられるが、岩倉山の祖先はここから出たのではないかと考えられています。




【錦光山(きんこうざん)】

粟田陶工の旧家の一つ。
慶長年間(1596-1615)の頃よりすでに製陶に従っていたとみられます。
正保の頃(1644-1648)初代小林徳右衛門が粟田口に築窯し「鍵屋」と号します。
二代もまた同じく徳右衛門といいます。
元禄年間(1688-1704)三代徳右衛門が粟田青蓮院の宮の御用を仰せつけられ「錦光山」の名を賜ります。
宝暦五(1755)年、岩倉山と共に将軍家の御茶碗師に命じられる。
四代・五代ともに喜兵衛と称し御用陶工でした。オランダ写しや仁清風のものを作る。
六代宗兵衛の頃より性を「錦光山」と改めます。青木木米に師事して磁器の製法を伝授し維新の頃、製品改良し貿易を始めます。これは京都磁器の海外輸出の最初と考えられています。
七代も貿易にますます励み、欧米なども視察し製品改革を図り大いに貢献します。緑綬褒賞受賞。1928(昭和3)61歳没。




【帯山(たいざん)】

初代高橋藤九郎。延宝年中(1673-1681)京都粟田口に住み、製陶開始。「帯山」と称す。
二代~五代与兵衛。
六代与右衛門、天保年間(1830-1844)に彩画陶器を製陶。粟田彩画のはじめとされる。
七代~九代与兵衛。1894(明治27)年頃に廃業したといわれています。




【丹山(たんざん)】

1851(嘉永4)年に粟田で磁器業を開きます。1853(嘉永6)には青蓮院の宮が陶器物産会所を設置すると陶磁を兼製します。1865(元治2)二代目芳太郎、1866(慶応2)その弟陸郎が継ぐ。




【宝山(ほうざん)】

陶家雲林院文造(文蔵)。祖先は滋賀県の甲賀郡信楽郷神山村(現信楽町神山)の人。天文年間(1532-1555)に京都へ出て洛北加茂あたりあるいは御菩薩池(みぞろがいけ)などに住み神社供物の土器類を焼いたとされる。
四代の頃に清水坂に移り製造したとされる。
九代安兵衛は粟田天王社の神職を兼ね、たまたま大和国(奈良県)の生駒山宝山寺の僧某より「宝山」の号を贈られた。以後この印を捺すことになります。
十六代文造は五条坂に移り雅器・塑像を作り、安政年間(1854-1860)に粟田青蓮院の宮より「泰平」の号を賜る。

別伝があり、初代は信楽黄ノ瀬の雲林院文蔵で、1660(万治3)粟田口に開窯、1673(延宝元)没とあるそうです。また宝山号についても1752(宝暦2)年に宝山寺の比丘尼に勧められて窯名にしてとも。代々「宝山」の印を使用し明治年間では11代目の計算に当たるとのこと。






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参考文献『原色陶器大辞典』、『日本陶器全集(大正)』

写真『日本陶器全集(大正)』

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プロフィール

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澤田
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