京焼の解説です。
京焼とは京都で産する全ての陶磁器をさす総称です。
【京焼概要】-創始と沿革については必ずしも詳細が明らかではないそうです。
・雄略天皇時代(456-479)
山背国内村(現京都府宇治市)および俯見村(現京都市伏見区)の陶工に御器を作らせる。
~ その後数百年の沿革は史伝に記するものはないとされる ~
・聖武天皇時代(724-749)
僧の行基が詔(みことのり)を奉じ山城国愛宕郡清閑寺村(現京都市東山区清閑寺)に窯を築き土器を製造。-これが京都における製陶の始まりと考えるとする説ー
・桓武天皇・延暦年間(782-806)
洛北鷹峯に窯を築き碧瓦を造らせるも誰による事業であったか定かではないそうです。
・元暦年間(1184-1185)
洛南深草に土器の製造があった。
・宝徳年間(1449-1452)
音羽九郎衛門、茶碗坂の遺跡を発見。深草より窯を移し陶器を作る。まだ堅良ではなかった。
・永正年間(1504-1521)
渋谷の元吉、深草より窯を清水に移す。
朝鮮人の阿米夜(あめや:楽長次郎の父)が帰化し京都に住み一種の陶器を発明。
・天正16年(1588)
秀吉候が聚楽第を営み、長次郎を召し利休の意匠に従い赤黒釉の茶碗を作らせる。
秀吉候は楽字の金印を長次郎に与える。
・天正・慶長年間(1573-1615)
正意、万右衛門、宗伯、六左衛門、宗三、源介、源十郎ら名工が輩出、音羽・清閑寺・小松谷・清水などに住み、音羽屋、丸屋などと号し製陶に従事。
慶長末、窯煙が同地豊公の廟所をおおうとのことで五条坂に移転。
・寛永年年間(1624-1644)
寛永元年(1624)尾張瀬戸より焼物師を招き粟田口三条通蹴上にて茶器を製陶。草字の粟田印が見られる。これを粟田焼の祖と考えられている。
またこの時代に野々村清右衛門(仁清)が清水産寧坂に窯を築き製陶。のちに粟田口・御室・御菩薩池(みぞろがいけ:現深泥池)・清閑寺・岩倉・鳴滝・鷹峯・小松谷などに窯を築く。仁和寺宮に仕え「仁」の字を賜り「仁清」と号した。
・明暦年間(1655-1658)
錦光山宗兵衛・丹山青海・宝山文造・帯山与兵衛らの一派が輩出。
・寛政年間(1789-1801)
豪商生まれの奥田潁川(おくだえいせん)が粟田に築窯。呉須赤絵を得意とした。
門弟に青木木米・高橋道八・亀助・嘉助ら名工がいる。
・文化年間(1804-1808)
高橋道八(仁阿弥)・和気亀亭・水越与三兵衛らが肥前有田の法に従い初めて青花磁器を製造。
尾形周平、金銀彩法を研究する。
またこれより先、尾形乾山が本阿弥光悦の法に倣い作陶。
・文政年間(1818-1830)
青木木米が粟田に窯を築きその後清水に移る。
またこれ以前に永楽善五郎保全がおり、土風炉を作る傍ら磁器を作陶。和漢の古器を模造するのに巧みであった。
1819年、茶碗坂音羽惣左衛門九代が衰微を理由に方広寺境内鐘鋳町の丸屋佐兵衛に窯を譲る。
同人、居宅裏に窯を移す。これが五条坂焼物窯の祖という説もある。
・文久年間(1861-1864)
幹山伝七、尾張の瀬戸より来る。清水に丸窯を築造した。-京都における丸窯のはじまりー
・・・・。
以来、一般に陶工は固有の美術的観念をもち本業の改良発達を図ります。文政の末年が最も精巧かつ京焼の名声を発揮したとされます。
以後、数々の陶工を輩出し京焼は今日に至ります。
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参考文献『原色陶器大辞典』
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