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古道具さわだ お道具資料編

古道具買取り店「京都さわだ古道具」の書画骨董、茶道具などお道具にまつわる資料を日々まとめております。読者様のご参考にしていただければ幸いにございます。

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清閑寺焼ー京都府の焼物(近畿地方)

清閑寺焼の解説です。


清閑寺焼(せいかんじやき)は京都の古窯で、窯は現在の東山区清閑寺山の内町あたりにあったもので旧清閑寺領丸山、後世茶碗坂または茶碗山といった地にあたります。

清閑寺窯に関しては諸説ありますが(※1)要するにこの地に清閑寺焼または音羽焼というやきもの窯があったことは事実です。

銘款には「清」とあるものがありこれは仁清の印にあたるとされています。仁清と名乗る前にこの窯で作ったものと考えられています。
「清閑寺」とあるものは仁清風ではあるものの時代が若く見え違うものであり、仁清と同時代あるいは後期の作と考えられていますが年代や作者などは不詳とされています。




(※1)京焼項を参照されたし
http://kottou.kyotolog.net/furudo-gu.blog/Page/50/







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参考文献『原色陶器大辞典』

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清寧軒焼ー和歌山県の焼物(近畿地方)

清寧軒焼の解説です。


清寧軒焼(せいねいけんやき)は、紀州徳川家11代斉順(なりゆき)の和歌山城下湊御殿の清寧軒で焼かれた御庭焼です。

養父治宝(はるとみ)の西浜御殿の御庭焼「偕楽園焼」に倣ったもので、天保(1830-1844)初めから弘化(1844-1848)の初め頃までの12、3年間の製作期間とされています。

作は全て楽焼であって、成功なものが多く、京都の楽家11代旦入が従事しました。
銘印には「楽」「清寧」「清寧軒」「三つ葉葵」などがあります。
隷書体の「楽」印は旦入が治宝より拝領したものとされます。




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参考文献『原色陶器大辞典』

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相馬焼ー福島県の焼物(東北地方)

相馬焼の解説です。


相馬焼(そうまやき)は、福島県相馬市中村および双葉郡浪江町大堀の陶器をさします。
磐城焼(いわきやき)ともいう。

中村のものは相馬駒焼と呼び、大堀のものは大堀相馬焼と呼ばれ区別されている。

【相馬駒焼】

田代源吾右衛門というものが寛永年間(1624-1644)に窯を起こしたといわれていますが、慶安元年(1648)に磐城中村藩主相馬候の命により上洛し、御室窯の野々村仁清について陶法を修業した後帰藩します。この時仁清より清の一字を贈られ、以後清治右衛門と改名しました。

帰藩後は藩主の命により中村城下に開窯します。これは御用窯であり御止め焼で明治以前まで私販は禁止されました。

初代の作は、仁清風の色絵で、角内に「清」の円印を捺している。1658年(万治元年)没。

二代は藩主の特旨により狩野尚信が来城の際描いた雲雀原の相馬図を下絵とした駒絵を始めました。これが相馬駒焼の起こりであるともいわれています。
この時代には象嵌の手法も始まったそうです。二代は1683年(天和3年)没。

慶応3年(1867)十一代の時宮中から法橋号を拝領し後には「田代法橋」の印銘も使っています。

明治以後も相継いで現代に及びます。


①相馬駒焼茶碗と駒絵




②相馬駒焼盃


【大堀相馬焼】

大堀村の半谷休閑が元禄3年(1690)に始めたされます。当初、下僕の左馬に陶法を習わせたがやがて井手(浪江町井手)に良質の陶土を発見し試し焼に成功したので休閑が伝授し茶碗を焼き、藩主に献上したところ嘉賞され、命により製陶を開始するにいたります。

製法伝授は当初は七名の村民に限られ「七人衆」と称され一子相伝・他見無用とされます。
しかし、好評につれ禁制も弛んでゆくと十人衆、十五人衆と増加し、次第に近隣にまでおよび宝永年間(1704-1711)には100余りの陶家が出るほど盛況をみせ藩の陶器役所が設けられるまでになりました。
製品は多く日曜雑器で、藩内の需要と藩外への交易を主としました。
世上に知られた作品は駒絵の青磁です。
明治以降現在にいたる。










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対州焼ー長崎県の焼物(九州地方)

対州焼の解説です。


対州焼(たいしゅうやき)は対馬の陶磁器で対馬焼のことです。
一般に朝鮮釜山窯の製品をも含めて称することも。

対馬の陶業は大変古く、出土片から遠く新羅・百済の時代に土器を作っていたと推定されています。のちに宗家の先祖がこの島に来た時以来、桟原(さじきはら)氏が代々土器つくりを継いでいったと伝えられているそうです。
実際史実にみられるのは、享保年間(1716-1736)従来宗家から燔師を派遣して焼造に当たらせた朝鮮釜山窯の廃絶直後で対馬焼はこの釜山窯の継続と考えられています。

窯は全て厳原(下県郡厳原町)近辺にあります。

①小浦皿山窯
創始年代は不明とされていますが諸窯中で最も古いとされています。高麗青磁に近い破片が確認。

②久田窯(増田窯)
享保の頃とされる。工人に早田恵作の名があるもの、青磁および濁りのある白磁類が主。

③志賀焼窯
対馬焼の中心をなすもので享保11年(1726)の創始。平山意春らが御用窯として開いたと考えられています。寛政3年(1791)新渡り茶碗窯をこの地に起こし、染付のものがある。
文化年間(1804-1818)の吉田又市が有名で各種の器を製した。
明治末年に廃窯。

④立亀窯
創始年代は不明。初め宗家の日曜磁器を製するために起こされたそうで白磁、染付を製する。

⑤阿須窯
弘化頃(1844-1848)に始まり日清戦争後廃窯。

⑥小浦窯
明治中期の創始、しばらくして絶える。

以上対馬焼はおおむね御用窯として主に朝鮮系統の茶器類を製しました。また新渡りの染付写しなども製する。








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参考文献『原色陶器大辞典』

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高遠焼ー長野県の焼物(中部地方)

高遠焼の解説です。


高遠焼(たかとおやき)は長野県高遠町の花畑で1813年に藩主内藤頼以の命により、美濃笠原の陶工が呼ばれ城内に上水を引くために土管を作らせたのが起こりといわれています。

これが後に御庭焼となり茶陶類を焼きます。1841年に多町に移り、木曾屋粂左衛門が経営にあたり日曜陶器を焼きました。

明治以降は窯が次々に興っては消えの繰り返しで1945年に一旦の閉窯をみます。
その後1975年に復興されました。







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参考文献『やきもの辞典』

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プロフィール

HN:
澤田
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性別:
男性
職業:
古物商

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