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古道具さわだ お道具資料編

古道具買取り店「京都さわだ古道具」の書画骨董、茶道具などお道具にまつわる資料を日々まとめております。読者様のご参考にしていただければ幸いにございます。

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東山焼ー兵庫県の焼物(近畿地方)

東山焼の解説です。


東山焼(とうざんやき)は兵庫県姫路市の磁器をさします。
文政(1818-1830)初め頃、飾磨郡糸引村東山(姫路市東山)に窯が築かれたようです。磁法は有田系。

のち姫路酒井家の御用窯となり文政12年(1829)頃まで焼かれたようです。

天保2年(1831)には姫路男山に移窯され京の尾形周平のもと陶技を修めた橘周蔵が支配役として、また尾形周平も来て指導にあたったようです。

安政(1854-1860)初年には藩の手を離れ民間の有志によって焼かれました。

作品は染付と青磁が主。藩営の男山窯時代のモノに優品が多いそうです。

銘には「播陽東山」「東山」「姫路製」などがあります。

明治初年頃、男山窯は廃窯。













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参考文献『原色陶器大辞典』

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常滑焼ー愛知県の焼物(中部地方)

常滑焼の解説です。


常滑焼(とこなめやき)は愛知県常滑市の焼物です。

起原については正確なものがわかっていないようです。
広島県や四国から青森県に及ぶ各地の遺跡から平安・鎌倉期の古常滑焼が出土しており全国的にわたり盛大に送り出されていたことがわかります。

自然釉や灰釉が肩に流されている炻器質の壺・甕が多く力強い作行が特徴です。
茶碗や瓦も多く見られますが宗教用・貴族用であり一般生活用品ではなかったようです。

室町期になると真焼と呼ばれる黒々とした堅い炻器の壺・甕が焼きだされました。丹波や備前・南蛮と近似しており見誤る場合もあります。

桃山時代には常滑城主水野監物が利休・津田宗及らと交流を深め常滑焼を紹介していたようです。しかし、監物は本能寺の変に際し明智片と組んだため京の嵯峨に逃れたのち天竜寺に入道しついには切腹することになります。
この事柄が常滑焼が桃山茶道にあまり姿を見せない背景と考えられています。

江戸時代の天明年間(1781-1789)頃には常滑元功斎が茶陶の世界を開いていきます。
文化年間(1804-1818)には茶道の流行とともに白鷗・陶然・長三ら名工が登場し良き時代を迎えます。

明治11年(1878)には中国より急須の製法が伝わり以来多数の朱泥急須が作り出され今日まで有名な一品となります。土管・タイルなども良く知られています。










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参考文献『原色陶器大辞典』

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苗代川焼ー鹿児島県の焼物(九州地方)

苗代川焼の解説です。


苗代川焼(なえしろがわやき)は鹿児島県日置郡東市来町苗代川で焼かれました。
串木野焼に従事した朝鮮陶工によって慶長11、2年頃(1606、7)の始まりと考えられています。

中心人物は朴平意という人物です。製陶にたけ、藩主島津義弘の寵を受け清右衛門の名を与えられました。初代苗代川の庄屋を命じられました。
また当時に沈当吉という良き陶工もいました。島津氏は彼ら帰化陶工を非常に厚遇し子孫まで安心し業を営めたといわれます。

延享・寛延・宝暦(1744-1764)にわたる約20年間は一時休業しますが重豪が家督を継ぐと宝暦11年(1761)には再び製陶の復活を命じました。
明和(1764-1772)より寛政(1789-1801)に至る約40年間は薩摩焼の全盛期といわれています。
寛政6年(1794)堅野窯では金襴手を製出するまでになります。
この苗代川窯においても朴正官は藩庁に錦手伝授方を申上し、文政10年(1827)錦手部の設置に至ります。

慶応3年(1867)にはパリ万国博覧会で朴正官は精巧な錦手大花瓶を出品し好評を博しました。

また錦手部とは別に安政4年(1857)藩主斉彬により苗代川窯平に磁器工場が設けられ、沈寿官が取締役に命じられました。
明治4年(1871)に廃藩となり藩庁の支配は中止され間もなく県庁の配下になり、次いで陶器会社の設立があり藩設の工場はすべて会社の所有になりました。

明治10年(1877)に西南の役にあたり陶器会社は瓦解します。全村の陶工は生計の道を失い廃窯の危機に直面しました。
沈寿官はこの回復を図り同村の藤尾に新窯を築き再び隆盛させました。

日清戦争後の貿易の振興に従い苗代川製品も大いに輸出されましたが、やがて粗製に傾き玉光山陶工場も解散。
日露戦争後は名工・良き経営者がともに出ず衰退していきました。

製品は黒物をはじめ白陶原料を発見してからは白物も出すようになりました。
朴平意の頃は刷毛目・三島手・宋胡録などもあり。
朴正官の頃は錦手が盛んでした。しかし民窯のため白物を禁じられました。
沈寿官に始まった磁器は主に輸出品を多く生産しました。









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中野焼ー長崎県の焼物(九州地方)

中野焼の解説です。


中野焼(なかのやき)は肥前国平戸中野村(現長崎県平戸市)の陶器です。
慶長3年(1598)藩祖松浦鎮信に従属していた朝鮮陶工巨関によって開かれ、のちにこの地を皿山と称するようになってからは皿山焼とも呼ばれたそうです。
高麗風を倣い刷毛目・粉引などの器を出しました。

三川内焼出現の端緒となったものとされます。


※同じく九州地方には中野焼と呼ばれるものが筑前国(福岡県)にありますがこれは小石原焼の一名とされます。









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鍋島焼ー佐賀県の焼物(九州地方)

鍋島焼の解説です。


鍋島焼(なべしまやき)は肥前国佐賀藩鍋島候が松浦郡大川内内山(佐賀県伊万里市大川内町)の御用窯で焼かせた精巧な磁器のことです。

その製品は将軍家・諸侯への贈答品に当てられた。

御用窯は初め有田岩谷川内にあり、寛文(1661-1673)初年頃南川原に移窯し、延宝3年(1675)に大川内に移窯されたそうです。

製品は多数の陶工の手を経たものであり、主は「色鍋島」と呼ばれる色絵物で他に染付・青磁もある。
呉須の色は大変落ち着きをもち、絵柄は非常に細かく巧みに描かれています。高台に櫛のような線描きがあるのも特徴でこれを櫛高台などと呼びます。


現代まで受け継がれ、無形文化財の称号を持つ今泉家がその伝統を引き継いでおられます。









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参考文献『原色陶器大辞典』

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プロフィール

HN:
澤田
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性別:
男性
職業:
古物商

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